関東大震災によって、芝居は若者に身近なものとなった。格式のある大劇場が焼け落ちると、入りやすい小さな小屋が盛んになったからだ。バラックの築地小劇場はまさに象徴だった。
つまりわれわれのような貧乏学生が、胸を張って入ることの出来る劇場が出来たということである。入場料なども歌舞伎と較(くら)べてずっと安い。それに上演時間が短いから、食事の心配はない。歌舞伎座などでは、休憩時間の食事といえば、蕎麦(そば)しか食べたことがない。弁当を食べれば一円はとられたし、蕎麦なら二十銭だった。(中略)
築地小劇場の入場料は二円均一で、五回の回数券を買うと五円だった。つまり半額になるといったわけである。しかし当時の学生にはこの五円の回数券を買える者が、なかなかいなかった。蘆原英了(あしはらえいりょう)『僕の二人のおじさん、藤田嗣治と小山内薫』
音楽や舞踊の評論家だった蘆原は開場時17歳、旧制中学の5年生だった。小山内薫の縁戚だったこともあり、通いつづけた。表現主義の『海戦』に「頭をガンとやられ」「築地小劇場を、一段も二段も高いところにおいて」感想文をパンフレットに投稿した。小説家、詩人になる高見順も投稿の常連で、エキストラに出演するほど熱をあげている。そのころの1円は公務員の初任給から換算すると2600円くらい。歌舞伎座の桟敷席は3円から5円くらいのようだから、ほぼ半額だ。