カーキ色のズボンにゲートルを巻いた浅利鶴雄は、震災の余塵(よじん)くすぶる東京で空き地を探し歩いた。1924年(大正13年)の春を迎えるころだ。新劇場の候補地は新宿の三越裏など30あまりもあった。鶴雄の回想によると、有力だったのは駿河台だ。
文化学院近くに場所を見つけた鶴雄は、小石川林町の土方邸に駆けこむ。新劇を尊ぶ学生の街だと喜ぶ土方与志は、その場で駿河台小劇場と命名した。が、交渉はすぐに頓挫(とんざ)。赤坂界隈に土地が見つかったときも赤坂小劇場と名前だけはつけたが、値段が折り合わない。お流れつづきでヘトヘトになった鶴雄はある日の午後、霊南坂あたりで腰をおろし、ため息をついた。救いを求めるような気持ちで坂をのぼり、右へ下った先の洋館を訪ねた。
枝折戸(しおりど)をくぐると偏奇館主人、永井荷風が温かく迎えてくれた。
「浅利君、あがりたまえ。このごろ、どうしてる小山内君は」