ここで浅利鶴雄の足どりを改めてふりかえっておこう。関東大震災で勤め先の帝国劇場が炎上し、失業中だった鶴雄は叔父の二代目市川左団次と関西巡業などに出ていた。おもな劇場を焼失したにもかかわらず、東京の演劇復興は早い。焼けなかった数少ない小屋で活動写真館でもあった麻布の末廣座(すえひろざ)から、左団次は正月興行を請われた。喜び勇んで引き受けている。
麻布といえば左団次の親友、永井荷風がいる。家を焼失していた左団次が荷風の住む偏奇館に間借りすることはできないか。鶴雄は先発し、その交渉にあたった。新しい愛人を家に入れていた荷風に断られ、近くの山形ホテルに滞在場所を決めたことは前に書いた。震災から3ヵ月あまりたった1923年(大正12年)12月半ば、鶴雄は再び東京で暮らしはじめていた。25歳の土方与志がヨーロッパから帰ってきたのは、末廣座正月興行の準備にいそしむ歳末のことだ。鶴雄には「ある日突然」の感があったらしい。東京駅で出迎え、蛮声(ばんせい)を発する荒々しい青年の姿に驚愕(きょうがく)する。