エディット・ピアフの名唱で世界的に知られる「愛の讃歌」を日本人で初めて歌ったのは、越路吹雪だとされる。1952年9月10~23日、シャンソン・レヴュー『巴里の唄』においてであった。歌詞はフランス語ではなく、岩谷時子の日本語訳に拠った。
まだ若手だった越路が、急遽、ベテラン歌手二葉あき子の代役に駆り出され、なにか柄の大きな歌が必要だと「愛の讃歌」があてがわれたというその経緯については、前回も軽く触れておいたが、名イラストレータ―、故和田誠の著書「ビギン・ザ・ビギン―日本ショウビジネス楽屋口」(文藝春秋)にも詳しく書かれている。
松井八郎と一緒に音楽を担当していた黛敏郎が、一つのシャンソンを越路に歌うようにすすめた。初日が迫っており、岩谷時子がすぐ訳詞をしなければならないことになった。日劇の稽古場で黛敏郎のピアノに合わせて、詞を作るのだ。あせったり、おろおろしたりしていた岩谷時子に、重山規子が「お姉さん、素敵よ」と声をかけた。それで自信がついて、詞が書き上がった。日本で歌われた最初の「愛の讃歌」であった。