小山内薫は迷える羊だった。なにごとにも影響されやすく、宣言しては別の場所へいく。思春期に内村鑑三のもとでキリスト教の神をみようとした人が、自伝的小説『大川端』に書いたような遊蕩(ゆうとう)にひたり、さらには吉原、千住、洲崎、品川、向島と遊び歩いた。震災後にたずさわった雑誌「女性」に寄稿されたエッセイによれば「神を見棄て」た生活を送りながらも「やはり神を求めていた」という。
ドン・フアンか。アシジの聖フランシスか。(中略)四十にして惑はずと言ふが、私は四十四になつて、まだ迷つてゐる。恥づかしいが、爲方(しかた)がない。噓つきの羊飼になるよりも、正直な「迷へる羊」になる方が、自分では好(い)いと思つてゐるのだ。
小山内薫「『大川端』時代」
フランシスとは清貧に生きたアッシジの聖人フランチェスコのこと。色事と信仰の間で揺れる小山内が近づいたものがある。新しい宗教がそれだ。