この作品が生まれるきっかけというのは、信じてもらえないかもしれませんが、ウォーターゲート事件にあります。あのときの公聴会をテレビで見ていて感じたものから、この作品は生まれました。つまり、あのころアメリカ中を支配していた虚無と無気力への反発です。ちょうど、私は自分の人生に正直でありたいと思っていた時期で、舞台の上で人々が自分の気持ちを正直にさらけ出している姿を見せたいと思っていました。と同時に、われわれダンサーについてのショーをやりたいという考えがありましたので、24人のダンサーを集めて、何時間にもわたり、いままで自分たちがやってきたこと、そして求めていることなどを話しあいました。なぜ、どういうきっかけでこの仕事をはじめたのかをできるだけ正直に話して欲しいとダンサーたちに頼みました。こうして集まりを二度おこない、テープレコーダーに録音しておきました。
ダンサーというのは、非常にオープンな性格を持った人種です。自分の強味、弱点をよく知っていて、自分自身を隠すことには慣れていません。これは、子どものころからダンスを習いはじめ、一生の大半を鏡の前の練習で過ごすからだと思います。鏡は嘘をつきませんから。
二度の集まりで収録したテープを、何ヵ月もの間、何度も何度も繰り返して聞いているうちに、「オーディション」の構想が浮かびました。
この作品で、ある部分は私自身の経験をもとにしていますから、その点では自伝的な作品といえるでしょう。たとえば、親は私を3歳のときにダンススクールに連れて行ってくれました。踊ることで、自分は特別の人間になったと感じたものでした。
最初の集まりに出たダンサーたちの半数は、長時間じっくり仕事をしていく余裕がなかったり、ほかの仕事があったりして、結局半数がキャストに残りました。このダンサーたちには週100ドルしか支払えませんでした。初日があいてからは週200ドルちょっとを支払いました。初演はオフ・ブロードウェイにあるパブリック・シアターで幕をあけたのですが、この劇場は299席しかないのです。低料金で公開するプレビューの間は、週1万ドルの赤字を出してしまいました。初日のあと、入場料を値上げしましたが、それでも週千ドルから2千ドルの赤字でした。この劇場には、キャストもオーケストラも大きすぎたのです。
それで、ブロードウェイのシューバート劇場に移ったのです。プロデューサーのジョー・パップには、結局30万ドルを超える負担をかけてしまいました。最初からブロードウェイの条件で公演をしたら、多分100万ドルにはなっていたでしょう。
しかし、このショーをブロードウェイで、しかも自分で資金を集めてやろうとしてもできなかったろうし、まして自分の考えている形態では絶対にできなかったと思います。婦人団体客に切符を売ろうとしても、題材の性格からして無理でしょうから。
普通、ブロードウェイ・ミュージカルは6週間のリハーサルで幕をあけます。
しかし、ジョー・パップは必要なだけ時間をかけてもいい、といってくれました。こんなことははじめてのことで、時間が十分あったことは有難いことでした。なにしろ、5時間分の芝居の材料があったのですから。
私が仕事をはじめてから手本としてきたのは、ジェローム・ロビンスです。ロビンスは『ウェストサイド物語』の原案を作り、演出、振付もした人ですが、ダンスの一つの水準を決め、ダンスをミュージカルで切っても切れない部分に作りあげました。『ウェストサイド物語』はミュージカルという分野に対して、そして自身にとっても、大変に強いインパクトを与えた作品です。私がダンサーとしてはじめてもらった仕事は、『ウェストサイド物語』の地方巡業の役でした。それまで、ブロードウェイ・ミュージカルは舞踊界から見下されていました。しかし、ある作品以後それはなくなり、アルヴィン・エイリーやロビンスのような人々がブロードウェイとバレエとの間にある境界線を超えて仕事をしています。
私自身は境界線を超えた仕事として、映画をやりたいと思っています。また、尊敬する振付家、ロバート・ジェフリーのためにバレエをするかもしれません。
踊れなくなったらですか...。そう、そのときには振付もやめます。それでいいのです。なぜなら、私に代わって私の役割を果たそうとする、素晴らしくそして新しい素質が次々と現われるでしょうから。
(1975年6月、マイケル・べネット氏がニューヨークの記者団に対して『コーラスライン』について語ったものを、劇団四季編集部で校正したものです。これまでの公演プログラムより転載)
マイケル・ベネット Michael Bennett
『コーラスライン』の原案・振付・演出。1987年7月2日、後天性免疫不全症候群(エイズ)で死去。享年44歳。
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