- 読売新聞日下武史さんを悼む 知的で明晰な台詞術
- 朝日新聞台詞が生んだ滋味豊かな世界
- 日本経済新聞「追想録」
- 産経新聞「四季」ひと筋の芝居人生
- 毎日新聞目標は「芝居を楽しむ」
- 東京新聞 「筆洗」
- 週刊新潮日下武史さん、台詞を観客に届ける姿勢
読売新聞2017年5月30日(火曜日)掲載
文化
日下武史さんを悼む 知的で明晰な台詞術 吉井澄雄氏(劇団創立メンバー・舞台照明家)
-
日下武史に出会ったのは1950年ごろだったろうか。彼と演出家の浅利慶太、作曲家の林光らの慶応高校グループと、私とフランス文学者の諏訪正と俳優の水島弘らの石神井高校グループがお見合いのような集まりをもったときだった。戦争が終わって間もない時代、石神井はいがぐり頭で軍服まがいの野暮ったい制服を着ていた。慶応は長髪に学生服。喋(しゃべ)っていると、長髪が顔にハラリとかかる、それをさっと頭に戻すその仕草がなんとも都会的で洒落(しゃれ)ていた。
この集まりから間もなく、日下は石神井グループによる劇団方舟(はこぶね)にただ一人招かれて出演する。ジャン・アヌイ『アンチゴーヌ』の全知の解説役であるコロスは、高校生とは思えない風格と台詞(せりふ)回しで我々を驚嘆させた。慶応グループには林やフルートの峰岸壮一、作曲家の小森昭宏らがいて、演劇と音楽の仲が良かった。後年、日下がフランス演劇からミュージカルまで軽々と飛翔(ひしょう)できたのもこうした土壌があったからだろう。
慶応では日下を皆がギョブツと呼んでいた。正倉院の御物のような、古風で端正な風貌(ふうぼう)からついた綽名(あだな)である。53年に共に劇団四季を創立した以降は、我々もギョブツと呼ぶようになり、綽名の域を越えた。
家庭の事情で大学在学中から赤貧洗うが如(ごと)き生活だったにもかかわらず、いつも穏和だった。日下は台詞を入れたり、発声や開口訓練を自らに課したりする努力を人には決してみせず、苛烈を極める劇団の稽古の中でも別格という感じだった。浅利慶太がイメージする演劇像の中には、常に御物のような日下武史がいたのではないか。慶応時代からの盟友を失った悲しみはあまりにも大きいだろう。 劇団四季の舞台では、『アンチゴーヌ』のクレオン、武田泰淳『ひかりごけ』の船長、三島由紀夫『鹿鳴館』の影山伯爵など、いずれも人生に耐え、苦悩し、晦渋(かいじゅう)な表情の芝居である。だが、『赤毛のアン』の養父マシューの人間味溢(あふ)れる演技。加藤道夫『思い出を売る男』で「自由を我等(われら)に」を歌い踊る乞食(こじき)の苦味あるユーモア。フランスの名優ルイ・ジュベを彷彿(ほうふつ)させる。私は日下武史を日本のジュベと呼びたい。我が国の演劇に知的で明晰(めいせき)な台詞術を齎(もたら)した功績は大きい。
朝日新聞2017年6月17日(土曜日)掲載
惜別
台詞が生んだ滋味豊かな世界 俳優 日下 武史さん
-
台詞(せりふ)主義の職人だった。1953年に生まれた劇団四季の創設メンバーとして、演出家・浅利慶太さん(84)らと共に歩んだ俳優人生だった。
悲報に接した浅利さんは「慶応高校の先輩であり、四季創設以来の同志でもあった。悲しみを禁じ得ません。イメージ豊かな明晰(めいせき)な台詞で、多くのお客様を魅了する素晴らしい俳優でした」とコメントした。
禁欲的に台詞に没入する姿勢。それが台詞の背後に広がる滋味豊かな世界をのぞかせる。仏劇作家アヌイやジロドゥの演劇でもシェークスピア劇でも、ミュージカルでも徹底。一見柄に合わない米テレビドラマ「アンタッチャブル」捜査官の吹き替えをこなし、視聴者の印象に残したのも台詞術の卓抜さゆえだろう。
2006年、四季の舞台『鹿鳴館』では影山伯爵を演じた。恋と政治の愛憎模様が絢爛(けんらん)たる台詞となって織り込まれた三島由紀夫の戯曲。四季にとって、異例の演劇の長期公演だった。
「真理のないということを政治は知っておる。だから政治は真理の模造品にならねばならんのだ」。この台詞が宿命的な呪文のように響く。劇場の闇に陰謀がクモの巣状にはりめぐらされているようにも感じた。
やはり四季創設メンバーで舞台照明家の吉井澄雄さん(84)は「彼の芝居からインスパイアを受け、創作の原動力となりました」とコメント。「俳優日下武史は、日本演劇界における、ひとつの頂であると思います」(報道局文化くらし報道部・米原範彦氏)
産経新聞2017年5月20日(土曜日)掲載
文化
追悼 日下武史さん 「四季」ひと筋の芝居人生
-
日下武史さんは、とてもシャイな人だった。おしゃれな人だった。粋を誇るのではなく、さりげない服装センスに清潔な気品がにおっていた。目玉がぎょろっとして一瞬怖いが、ニコッと笑い掛けられると気持ちが安らいだ。
「僕はね、役者には向かないと思っていた。人前に出るのが嫌いで、若いときから引っ込み思案。引く人生の方が楽と思っていた」。俳優業について尋ねると決まってそう答えた。そこには常におごりを戒める日下さん流のシャイなダンディズムが表れていた。
昭和28年、慶応大の同窓の浅利慶太さんらと劇団四季を結成。以来64年、四季ひと筋の俳優人生をまっとうした。29年の旗揚げ公演『アルデールまたは聖女』で初舞台。「そのとき演じた伯爵役がね、女房に浮気されているのに浮気相手の若い男と付き合うひと筋縄ではゆかない役でした」。演技派・日下さんの原点だ。
日下さんならではの役々は、四季のせりふ劇レパートリーとして上演が繰り返されている。『ひかりごけ』の船長、『エクウス』のダイサート、『ヴェニスの商人』のシャイロック、『思い出を売る男』のこじき、『鹿鳴館』の影山伯爵。珍しいミュージカル作品でも『赤毛のアン』のマシューや『美女と野獣』のモリースなどがある。
俳優・日下さんを私が強烈に意識したのは、昭和44年の劇団外公演『オセロー』で二代目尾上松緑(おのえしょうろく)のオセロー将軍に奸計(かんけい)を仕掛けるイアーゴー役だった。そのあまりの陰険邪悪な役作りにわたしは役を超えて、演じている日下さんを憎み、嫌った。その後、新聞社の演劇記者になってからも、自分勝手なしこりもあってか取材機会は訪れず、わたしが日下さんと面識を持ったのは、四季初めての三島由紀夫作品『鹿鳴館』のとき。その頃は日下さんへの嫌悪感は霧消し、数々の四季作品での名演に敬愛の念さえ抱いていた。私の拙い日下=イアーゴー説に日下さんはにこやかに応じた。「俳優は芝居を楽しむのが究極の目標。だから、あなたが僕のイアーゴーを見て嫌らしく見えたとしたら、日下自身が非常にその役を面白がってやっていたということでしょうね」
それから幾たび取材しただろう。『鹿鳴館』から11年。最後が4年前、四季創立60周年記念として四季広報誌が企画した創立メンバーインタビュー。日下さんが受けた最後の取材となったそうだ。82歳の日下さんは「身体を整えてまた、舞台に立ちたい」と語っていた。「やりたいのは、『エクウス』『ひかりごけ』『赤毛のアン』。実現不可能とは思うけど、『鹿鳴館』も」。晩年からのお付き合いだが、年の離れた兄のようで、「90歳まではやってよ」なんて軽口をきいた。「そうだね、静養のため外国にでも行くかね」。休みができると外国旅行が趣味だった。
訃報は、静養先のスペインから届いた。5月15日、86歳。一生かけて劇団四季に尽くした俳優だった。スペインで永遠の眠りに就くなんて!
日下さんらしいおしゃれな幕切れだった。(劇評家・石井啓夫氏)
毎日新聞2017年6月26日(月曜日)掲載
悼む
目標は「芝居を楽しむ」 日下 武史さん 俳優
-
恥じらいを知る人だった。感情表現過多の演技とは無縁。台本のせりふを明晰(めいせき)に、かつイメージ豊かに観客へ伝えるのが役者との信念があり、実践した。「俳優は芝居を楽しむのが究極の目標ですよ」。忘れられない一言である。
劇団四季は1953年、日下武史ら慶大、東大の学生を中心に10人で結成された。それが今、俳優・スタッフは1300人に上り、年間3000ステージも公演している。
創立までの話をよく伺った。慶応高校で日下は、作曲家の林光らから演劇部に誘われる。「アラジンと魔法のランプ」という芝居をやるが、「メーキャップしなくても魔法使いになれる」と口説かれたのだ。ところが、林らは音楽の世界へ転出、残された日下は演劇部長として、1学年下の浅利慶太を勧誘する。野球部に行くつもりだった彼を説き伏せた。サローヤン作「わが心高原に」を上演することになり、アルバイトに追われる日下に代わり浅利が演出した。この舞台が慶応高校の英語教師も務めていた劇作家、加藤道夫らに激賞される。
劇団四季の旗揚げ公演、アヌイの『アルデール又は聖女』以降、日下の舞台は数多いが、鮮明な印象を残した作品を挙げる。『エクウス』の精神科医役、尊厳死をテーマにした『この生命誰のもの』、『ヴェニスの商人』のシャイロック役、『スルース』のアンドリュー・ワイク役、『鹿鳴館』の影山伯爵役などだ。せりふ劇だけでなく、ミュージカルでも『赤毛のアン』のマシュー・カスバート役など、温かい心が伝わってきた。声優としてTV「アンタッチャブル」のエリオット・ネス役も忘れられない。劇団四季創立からのピュアな魂をずっと持ち続けた俳優だった。(客員編集委員・高橋 豊氏)
東京新聞2017年5月21日(日曜日)掲載
筆洗
-
高校演劇コンクールに「アラジンと魔法のランプ」で挑むことになったが、「魔法使い」の役が見つからない。悩んでいると、ふと隣にいた級友の顔が目に入った。「こいつなら魔法使いのメーキャップさえいらない」
「魔法使い」は級友の誘いに演劇部に入り、以降、長い七十年近い芝居の道を歩むことになった。亡くなった俳優の日下武史さん。八十六歳。自然と耳に入ってくる味わい深い声。明瞭にして説得力のあるせりふを思い出す。
高校演劇部の部長となった日下さんは「野球部か演劇部か」で悩んでいた新入生の勧誘に成功する。やがて日下さんとともに劇団四季を結成した演出家の浅利慶太さんである。不思議な糸が日下さんの道には張りめぐらせてあったか。その糸は日本を代表する大劇団にまでつながっていた。
最後の舞台は『思い出を売る男』。高校時代、日下さんに芝居を教えた劇作家加藤道夫の作品である。これも不思議な糸のようである。
敗戦直後、戦争に傷つき、荒廃した生活に悲しい心を抱えた人間に幸福だった頃の思い出を見せる男の話である。戦争で恋人を失った街の女に男がこうささやく。「だから、君の思い出は人一倍美しいのさ」。
家業が傾いたことを苦に芝居の道をあきらめかけたことがあるそうだ。長い長い芝居に幕が下りるとき、「魔法使い」はどんな思い出を見ていらっしゃるか。
週刊新潮2017年5月25日(木曜日) 2017年6月1日号掲載
墓碑銘
劇団四季の創立メンバー
日下武史さん、台詞を観客に届ける姿勢
-
劇団四季が結成されたのは1953年。慶應義塾大学と東京大学を中心に約10人の学生により立ち上げられたのが原点である。 日下武史さん(本名・日下孟(たけし))は創立メンバーのひとりだ。浅利慶太さんは慶應で日下さんの1年後輩にあたる。
浅利さんと大学時代から親しい、音楽評論家の安部寧さんは当時を振り返る。
「54年の旗揚げ公演『アルデール又は聖女』を観たことを思い出します。フランスのジャン・アヌイの作です。日下さんは伯爵の役で、最初から実にうまかった。洒落っ気があり声も通る。日下さん以外は下手だ、と厳しく評された時期がしばらく続いたのです。演出や対外面を担った浅利さんは、日下さんがいて幸運でした」
演劇評論家の岩波 剛さんも思い起こす。
「器用に役を演じているというより、すっかり役の人物として生きている姿を見せてくれました。劇団四季の看板であるのはもちろん、戦後を代表する名優です」
31年、東京生まれ。慶應義塾高校在学中、写真部にいた日下さんは、後に作曲家となった林光さん、フルート奏者になった峰岸壮一さんから演劇に誘われたことが生涯を決した。やがて日下さんは野球部に入ろうとしていた浅利さんを演劇部に引き込む。高校では、劇作家の加藤道夫さんが英語教師を務めており、若い才能を認めて励ました。
「当時の演劇界は、思想的色合いが強かったり、感情表現こそが演劇のようにとらえられ、肝心の台詞が聞き取れない舞台がありました。これではいけないという問題意識が、劇団四季の結成につながった。演劇とは文学の立体化と考えていました。台本の言葉が持つ文学的な魅力を俳優がしっかり理解して台詞を一言も漏らさずに観客に届けることで、舞台と観客の一体感を生もうとしました」(安倍さん)
一方で、台詞の明瞭な発声は“四季節”など揶揄されもした。演劇評論家の大笹吉雄さんは言う。
「日下さんの台詞はすんなり伝わってきました。劇団四季は今ではミュージカルの印象がまず浮かぶでしょうが、歌や踊りのない台詞だけの演劇、ストレートプレイが出発点。それゆえ、台詞の扱いは最重要だった」
演劇だけでは生活できず、日下さんらは海外のテレビ番組の吹き替えも手がけた。61年、アメリカの人気テレビドラマ『アンタッチャブル』で主人公の捜査官エリオット・ネスの声を吹き替え大反響を呼ぶ。単なる訳ではなく人物像も伝わった。
60年代から映画やテレビドラマにも出演している。
「幕末の動乱を描いた『暗殺』(64年)に出演してもらいました。日下さんの魅力は声です。一言発した中に、置かれている状況や心情などが、自然と豊かに込められていましたね」(映画監督の篠田正浩さん)
精神科医を演じた『エクウス』(75年初演)や尊厳死をテーマにした『この生命誰のもの』(79年初演)のように話題作は枚挙にいとまがない。台詞の奥に潜むイメージまで深める謙虚な姿勢は一貫していた。『美女と野獣』ではヒロインの父親役を務めるなど、ミュージカルにも出演している。
「山田五十鈴さんに請われて共演したこともある。外部から引く手あまたでも、劇団四季で活動を続け、人望もあった。 子供達に生の舞台の楽しさを知って欲しいと願っていた」(安倍さん)
劇団四季創立60周年を迎えた翌年の2014年、『思い出を売る男』への出演が最後の舞台となる。今年4月には舞台稽古に姿を見せていたが、5月15日、夫妻で静養中のスペインで誤嚥肺炎のため、86歳で逝去。
長く病に臥(ふ)し、日下さんが介護していた妻の睦子さんを09年に看取る。子供はいなかった。翌10年、79歳で、劇団四季の女優で7歳年下の木村不時子さんと再婚。舞台で共演、睦子さんも人柄をよく知り、認めていた仲間との縁に恵まれた。